Arknights 2024/11/23 Sat ギムレットの告白「私は打算的な人間だよ」 彼の人の口癖だった。 一講師とは思えない程の人脈を築いている通称、ドクターと呼ばれる男は穏やかに笑いながら、そう告げて名ばかりの貴族となった私に手を差し伸べたのだ。 見目が良い私をパトロンという肩書を使って慰み者としようと誘いをかけてきた輩を、その人物は鮮やかに退けた。 その頃の私は異国の地で、理不尽に振るわれる力を振りほどくことすらできないほど、ちっぽけな人間だったのだ。 救出されたというのに、警戒し毛を逆立てる子猫に等しき存在に彼は、やはり穏やかに笑った。「君は力が欲しいかい?」 悪魔の誘い。目の前での応酬を見た後では、彼は自分よりも力を得ていることはわかっていた。 静かな眼差しは柔らかく日だまりのような温かさを宿していた。 悪意に晒され続けてきた中で、その目が信頼出来ると自らの裡が囁いた。 誘いを肯定した、まだ少年の域といえる私が伸ばした手を痩せた手が恭しいともいえる仕草で掴んだ。骨と皮ではないかと思うほど、肉のない指先はひやりとしていた。「いい子だ。では、まずは自己紹介といこうか?」 くすり、と笑みが含んだ声は私を知っているのだと予測できたが、背筋を伸ばして口を開いた。「エンシオディス・シルバーアッシュです。よろしく、プロフェッサー」「プロフェッサーなんて偉いものではないよ。皆からはドクターと呼ばれてる、単なる雇われ講師だ」 目深に被っていたローブのフードを払ったドクターは、”単なる”などと、まるで自分の事を自覚してない、ふざけた呼称を名乗った。 彼は私にあらゆる知識を叩き込んだ。種族不詳のこの人物は長命の類なのだろうか、と疑うほどの知識量に舌を巻いたのは何度あったことか。専門は神経学だというが、天災研究者としての一面も持ち、経済学、政治学、心理学、果ては軍事学の造詣まで深い。私に課題を与えている間に本人はあちらこちらと顔を出し、人脈を築いていく。 傍らにいながら遠い存在は、いつの間にか私にとって、特別となったのは、さして時間のかかることではなかった。 出逢った頃の不信から尊敬へ、尊敬が思慕へと形を変える中、彼はよく私に言うのだ。「私は打算的な人間だよ」 事も無げに、私が扱う白のキングを追い詰めながら笑うのだ。「これは投資だからね。君はきっと私にこれ以上のものを返してくれるだろうから」 そうして、彼と出会って数年。 ヴィクトリアにしては酷く冷えた夜。 黒のキングが昇格したポーンに打ち取られた。「強くなったね」 幼子の成長を褒めるように告げられた祝福に、尻尾の毛が逆立った。 彼は口元を一瞬だけ引き締めた後、にこりと笑う。私は彼にも悔しさがあるのだと、新たな発見をしたのだと、愚かにもそう思った。 席を立った彼が爽やかな柑橘の香りとともに戻ってくる。渡されたグラスに警戒心が込みあげることもなく、中身を口にした。 ジン特有の味わいとライムの爽やかな甘さが舌に乗る。 同じようにグラスを傾けた彼が書籍に囲まれた部屋で存在感を主張しているベッドに座り、自らの横をぽんぽんと指し示す。 それは様々なことを彼と語り合う時の定位置だった。私はいつものように隣へと移動する。その一歩が少しだけぐらついた事に驚いたが、彼の前で無様な様子を見せたくないという細やかなプライドで押し隠した。そもそも寒冷地であるイェラグの者は酒に強いものが多い。この程度で酔うはずはないという自負もあった。「エンシオ。君はもう少し警戒しなければいけないよ?」 彼の言葉と同時に、不意に心臓が跳ねた。するりと細く冷たい指先が私の頬を撫でた。 まさか、という思いに目を見開いた私の唇に冷たい肌が触れた。脈が速くなり息が上がり体温が高くなる。「君のことはとても可愛いと思っているよ」 彼が私に口づけるという不意打ちに腰に熱が溜まる。だがすぐにそれだけではないことに気づかされた。 ぞくぞくと体の奥から衝動が湯水のように沸き上がる。悪意に満ちた世界で生きる為の力は何でも教えてあげると言っただろう? と彼が囁く。 「だからね? おいで、エンシオ。ハニートラップのお勉強をしようか?」 穏やかな口調で淫猥な誘いをかける彼の手を拒むことなどできなかった。 頭が重い。彼を貪っている最中に飲まされた中和剤は睡眠薬の成分も入っていたのだろう。訪れてくる睡魔に体を起こそうにも言うことを聞いてくれず、せめてものと視線だけ、彼に向ける。 噛みつかれ少量の血を流している彼の首筋には、鬱血の跡も散っていた。 掠れた声で名を呼ぶ。閨の最中に教えてくれた、恐らく今は誰も呼んでいない彼の名前。 青白い手が緩やかに髪を撫でる手は心地が良い。だが、今はそれよりも真意を問いたく、私は手を伸ばした。 彼の唇が動く。「どうして私と出逢ってしまったんだい」 自嘲とともに、いつも穏やかな眼差しで私を見守っていた彼と思えないほどの深い悲しみが、その目に浮かぶ。「私は、打算的な人間だからね。損得勘定抜きに傍にいることなんてできないんだよ」 彼の口癖。そして、彼の透明な拒絶の線引き。 その細い体躯を抱きしめ否定の言葉でつなぎ留めたいと願っているのに、薬によって勝手に瞼が帳を閉じていこうとする。行かないでくれ! と叫ぼうと抗う私に、まるで懺悔のように呟かれる六文字。 私もだと開いた口は音にならず、冷えた空気に溶けていく。 そして、彼は私と知と傷を残して姿を消した。 #銀博
「私は打算的な人間だよ」
彼の人の口癖だった。
一講師とは思えない程の人脈を築いている通称、ドクターと呼ばれる男は穏やかに笑いながら、そう告げて名ばかりの貴族となった私に手を差し伸べたのだ。
見目が良い私をパトロンという肩書を使って慰み者としようと誘いをかけてきた輩を、その人物は鮮やかに退けた。
その頃の私は異国の地で、理不尽に振るわれる力を振りほどくことすらできないほど、ちっぽけな人間だったのだ。
救出されたというのに、警戒し毛を逆立てる子猫に等しき存在に彼は、やはり穏やかに笑った。
「君は力が欲しいかい?」
悪魔の誘い。目の前での応酬を見た後では、彼は自分よりも力を得ていることはわかっていた。
静かな眼差しは柔らかく日だまりのような温かさを宿していた。
悪意に晒され続けてきた中で、その目が信頼出来ると自らの裡が囁いた。
誘いを肯定した、まだ少年の域といえる私が伸ばした手を痩せた手が恭しいともいえる仕草で掴んだ。骨と皮ではないかと思うほど、肉のない指先はひやりとしていた。
「いい子だ。では、まずは自己紹介といこうか?」
くすり、と笑みが含んだ声は私を知っているのだと予測できたが、背筋を伸ばして口を開いた。
「エンシオディス・シルバーアッシュです。よろしく、プロフェッサー」
「プロフェッサーなんて偉いものではないよ。皆からはドクターと呼ばれてる、単なる雇われ講師だ」
目深に被っていたローブのフードを払ったドクターは、”単なる”などと、まるで自分の事を自覚してない、ふざけた呼称を名乗った。
彼は私にあらゆる知識を叩き込んだ。種族不詳のこの人物は長命の類なのだろうか、と疑うほどの知識量に舌を巻いたのは何度あったことか。専門は神経学だというが、天災研究者としての一面も持ち、経済学、政治学、心理学、果ては軍事学の造詣まで深い。私に課題を与えている間に本人はあちらこちらと顔を出し、人脈を築いていく。
傍らにいながら遠い存在は、いつの間にか私にとって、特別となったのは、さして時間のかかることではなかった。
出逢った頃の不信から尊敬へ、尊敬が思慕へと形を変える中、彼はよく私に言うのだ。
「私は打算的な人間だよ」
事も無げに、私が扱う白のキングを追い詰めながら笑うのだ。
「これは投資だからね。君はきっと私にこれ以上のものを返してくれるだろうから」
そうして、彼と出会って数年。
ヴィクトリアにしては酷く冷えた夜。
黒のキングが昇格したポーンに打ち取られた。
「強くなったね」
幼子の成長を褒めるように告げられた祝福に、尻尾の毛が逆立った。
彼は口元を一瞬だけ引き締めた後、にこりと笑う。私は彼にも悔しさがあるのだと、新たな発見をしたのだと、愚かにもそう思った。
席を立った彼が爽やかな柑橘の香りとともに戻ってくる。渡されたグラスに警戒心が込みあげることもなく、中身を口にした。
ジン特有の味わいとライムの爽やかな甘さが舌に乗る。
同じようにグラスを傾けた彼が書籍に囲まれた部屋で存在感を主張しているベッドに座り、自らの横をぽんぽんと指し示す。
それは様々なことを彼と語り合う時の定位置だった。私はいつものように隣へと移動する。その一歩が少しだけぐらついた事に驚いたが、彼の前で無様な様子を見せたくないという細やかなプライドで押し隠した。そもそも寒冷地であるイェラグの者は酒に強いものが多い。この程度で酔うはずはないという自負もあった。
「エンシオ。君はもう少し警戒しなければいけないよ?」
彼の言葉と同時に、不意に心臓が跳ねた。するりと細く冷たい指先が私の頬を撫でた。
まさか、という思いに目を見開いた私の唇に冷たい肌が触れた。脈が速くなり息が上がり体温が高くなる。
「君のことはとても可愛いと思っているよ」
彼が私に口づけるという不意打ちに腰に熱が溜まる。だがすぐにそれだけではないことに気づかされた。
ぞくぞくと体の奥から衝動が湯水のように沸き上がる。
悪意に満ちた世界で生きる為の力は何でも教えてあげると言っただろう? と彼が囁く。
「だからね? おいで、エンシオ。ハニートラップのお勉強をしようか?」
穏やかな口調で淫猥な誘いをかける彼の手を拒むことなどできなかった。
頭が重い。彼を貪っている最中に飲まされた中和剤は睡眠薬の成分も入っていたのだろう。訪れてくる睡魔に体を起こそうにも言うことを聞いてくれず、せめてものと視線だけ、彼に向ける。
噛みつかれ少量の血を流している彼の首筋には、鬱血の跡も散っていた。
掠れた声で名を呼ぶ。閨の最中に教えてくれた、恐らく今は誰も呼んでいない彼の名前。
青白い手が緩やかに髪を撫でる手は心地が良い。だが、今はそれよりも真意を問いたく、私は手を伸ばした。
彼の唇が動く。
「どうして私と出逢ってしまったんだい」
自嘲とともに、いつも穏やかな眼差しで私を見守っていた彼と思えないほどの深い悲しみが、その目に浮かぶ。
「私は、打算的な人間だからね。損得勘定抜きに傍にいることなんてできないんだよ」
彼の口癖。そして、彼の透明な拒絶の線引き。
その細い体躯を抱きしめ否定の言葉でつなぎ留めたいと願っているのに、薬によって勝手に瞼が帳を閉じていこうとする。
行かないでくれ! と叫ぼうと抗う私に、まるで懺悔のように呟かれる六文字。
私もだと開いた口は音にならず、冷えた空気に溶けていく。
そして、彼は私と知と傷を残して姿を消した。
#銀博